アイドル転落記

絶望の学生時代からアイドルを経て不倫に走り、愛する子どもを殺し、ブラック企業を経験したのちに平凡且つ普通のOL生活を手にいれる一般女性の話。ノンフィクション。実話です。

高校生活⑥志望大学 

ミュージカル公演を期に私はスクールに行かなくなった。

 

今まで糞くらえと思っていた英里たちに土日は必ず会わなくてはいけないから、平日の通常レッスンも遠慮しないで行っていいんだし、行きたいのに我慢する必要はないと思っていた。何より、”あいつ来なくなったね。うける”そう思われたくなくて負けん気で通っていた。でも、公演が終了した途端にその負けん気はどこかへ消えていった。

消えていったというより、土日会わないなら、

そんな環境の所に無理して通わなくていいんだと、燃やしていた闘志の炎が消えたといった方がいいかもしれない。

 

肩の荷が下りた。

もう、笑われに行かなくていい。避けられなくていい。英里に合わなくていい。嫌な思いをしなくていい。

 ようやく自分の本当の気持ちに正直になれた。

 

嫌な気持ちのまま、くだらない女たちに負けたくないから通っていただけだった。

闘志を燃やしているのだと思い込んで弱い自分を隠しただけだった。

 

以前、新体操の選手コースに進級するところで、

いじめられ、新体操を辞めたことがあったが、

頑張ろうと思った場所で、

女のいじわるのせいで、辞める。

 

完全にデジャヴだった。

環境が悪い。すべて環境のせいにして逃げていたのだが、

これに気付くのはもっと大人に近づいてからになる。

 

 

 

ミュージカルスクールに通わなくなった私に、

お金をかけてくれた両親は何も言わなかった。

「受験だから通ってなんかいられない」

「そろそろ真面目に勉強しなきゃ」

何て言ったのか、何か言い訳したのか、それとも何も言わなかったのか、詳しくは覚えていないが、当時の私はたぶん、進学校にいることを盾にしたのだろう。

 

高校3年生になり、I駅にある、大手予備校に週3回通い始めた。

理数系が苦手という理由で文系だったので、国語、英語、歴史の3科目を受講した。

 

しかし、大手予備校は私には合っていなかったのだろう。

大人数に対して先生が一人で講義をするので、わからないところがあっても質問できないままだし、先生に個人的に質問に行くほど熱心でもなかった。

わからないから楽しくないし、ストレスでしかなかった。

特に、大学に入ってやりたいこともないし、入りたい大学も入りたい学部もなかった。

強いていえばミュージカルや舞台、芸術関連の勉強をしたいと思った。

ミュージカルに対する気持ちが完全に失われたわけではなかった。

むしろ、興味があること以外なら大学なんて入ってもどうせ辞めることになるよ。

と脅しまがいのことすら、親に発していた。

 

そういった学部がある大学は非常に少なかった。

音大は、楽器の専門になるし、芸術学部といえば日大芸術学部が筆頭に挙がるが、才能のある限られた人が入れる狭き門だった。

 

夏休み前に、受験する大学について高校の担任と2者面談をする機会が設けられた。

その時に気持ちをすべてぶつけた。

先生はとても熱心な方で、私の交友関係なども熟知していた。

先生からのアドバイスは、”絶対行きたくなるから青山学院大学(MARCH)に見に行ってごらん。青山学院大学なら総合文化政策があるから、そういったことを学べるよ”

といったものだった。

そして先生がそのまま、ダウリングコレットのギターの萌子に声をかけたので、強制的に大学の見学に行くことになった。

 

その後、流されるままに見学に行き、その後の模試には青山学院大学の総合文化政策を判定大学欄に入れるようになった。

8月模試ではA判定だった。

 

夏の時点でA判定だった私は、そのまま上を目指すのかと思いきや、

へたれを発揮し、調子にのってあまり勉強しなかった。

暇つぶしに予備校には通っていたが、勉強にまるで身がはいらなかった。

受験生全員が努力して成績を伸ばす時期に私は妥協していた。

A判定がでてしまったことが裏目にでた。

 

その後の秋の模試ではE判定にまで落ち、このままではやばいと思いつつも、

夏に開いた差は埋まるわけがなく、

判定が回復することはなかった。

 

MARCHに行きたいというプライドがあるわけでもなく、

やっぱり、落ちこぼれのわたしなんて無理なんだよ

という気持ちに支配され、そのまま志望校を変更した。

 

やはり、芸術系を学べる学校は譲れなかった。

私は、T川大学芸術学部とA女子大学文学部にある現代の文化の表現を学べる大学を受験することにした。

T川大学は、実技を含む、舞台を学べる学校だった。

A女子大は座学のみだったし、馬鹿が集まる学校として、有名だったのであまり行きたくなかったが、芸術を学べるので、他大学の文学部や経済学部に行くことと天秤にかければ、A女子大学が勝った。

大学受験といえば、たくさんの学校、たくさんの学部を受験する人が多いと思うが、私はこの2校に絞り、記念受験も拒否した。

 

T大学の芸術学部にはピアノ専攻と、舞台専攻があり、受験方法がどちらの学科も2科目だった。

2科目中1科目を実技にすることも可能だった。実技が、ピアノ、歌、バレエから選択できたが、私は2科目とも筆記を選択した。

実は、小学校1年生~高校3年生までピアノを習っていた。

高校3年生の頃には、ピアノの先生に、”ルナちゃんも音大こない?お姉ちゃんよりも才能あるよ。ルナちゃんのピアノは表現がすごくいい”と声をかけてもらったこともあり、T大学を受験することを知った先生は”ピアノで受験すれば受かるよ”とまで言ってくれた。

しかし、私は頑なに拒否した。ピアノ自体がそこまで好きではなかったし、姉がどれ程ピアノに向き合っているか知っているから、あんなに練習するのは嫌だと思った。

 

 

周りの意見を一切聞かないで試験方法や、志望校を決定した私は、1月になり、ついにセンター試験を迎える。

滑り止めであるA女子大学をセンター受験するために、全国統一センター試験の受験が必要だった。

現代文と英語、歴史の中から2教科の点数がいいものが採用されるということで、

現代文が常に満点か95点の私には余裕だった。

 

余裕なはずだった。

 

なのに・・・・・・・・・

 

続く

 

 

 

 

高校生活⑤性悪女

ミュージカルの一般公募からの応募は
中学生2人、高校生1名、大学生2名、社会人2名だった。

オーディション形式はとっていなかったが、
全員舞台経験者、演技経験者だった。

中学生2人は以前このスクールの短期コースに通っていた、いわば関係者で、
高校生はバレエを4歳から習っていた。ミュージカルを副専攻で選べる学校に通っていて、歌も習っていた。
私よりも、そして明らかに英里よりもダンスが上手だった。動きが可憐だった。

莉奈という名のその高校生は私と英里のひとつ下の学年だったが、
莉奈の実力を知った英里はすぐに莉奈と仲良くするようになった。
向上心の高い莉奈が一般通常レッスンにも参加しはじめたので、平日も莉奈がスクールに来るようになった。

 

英里はそれからすぐに私の存在を虫けらのように扱うようになった。

下手くそには興味がないといった具合に、あからさまに避け、ダンスレッスンも歌のレッスンも離れた位置に陣取ってこちらを見ながらくすくす笑った。

 

英里だけならまだよかったのだが、いつしか同年代の女子全員からそういう態度を取られるようになっていった。莉奈は長い物には巻かれろ精神を持った典型的女子で、英里の味方をしていた。

英里にとって私の何が気に入らなかったのかは今だに解明できていない。

今まで仲良くしていた、一緒に買い物に行き、振り付けを考えた英里とは別人だった。

豹変した英里が怖かった。

女は総じて性格悪い。そう思った高校2年の10月だった。

 

通常レッスンに行くと全員から避けられ、こそこそ笑われるからもう行きたくなかった。

シューズも揃えたし、月謝も払っているけれど、

11月からはだんだん通常レッスンには行かなくなっていった。

 

だが、公演の為の土日のレッスンには休まず行った。

楽しみにしている公演だからレッスンに遅れを取りたくなかったし、大学生と社会人は仲良くしてくれたから苦ではなかった。

そしてなぜか、英里は公演レッスンのときには無視したり避けたりあからさまな態度を取ることはなかった。平日の態度が嘘のように普通に話しかけてきたので、どうしたらいいか分からなかった。

大学生と一緒にいるのは心地よくて楽しかったので、プライベートでも遊んだりもしたが、英里達の態度については言及しなかった。

女はすぐに自分の都合で態度を変える。基本的に性格が悪い。私の中にインプットされ始めていた。

大学生も信用しきれていなかったし、例外的に良い人だとしても、構築してきた私たちの間に無駄な亀裂を生みたくなかった。

 

通常レッスンから足が遠のき始めていた11月上旬、公演の配役オーディションが行われた。

希望する役を提出し、1人ずつ歌唱、演技、ダンス審査が行われた。

 

オーディションの結果は、

莉奈が主人公の敵で準主役、英里が莉奈の手下で役付きではあるけれどわき役、そして私は役が付かないアンサンブルになった。

オーディション内容も酷いものだったけれど、事前に提出したレッスン参加表を正直に記入したのも理由のひとつらしい。

テスト前は学校で膨大な提出物が課されるので、レッスンに参加していたら提出物が処理しきれないし、提出物ポイントがなくなったら留年と隣合わせだ。テスト前は×で出していた。

 

土日は英里の態度が普通だから、そろそろ大丈夫なのかなと淡い期待を抱いて平日の通常レッスンに参加した私に英里は吐き捨てた。

"へえ。今日は来たんだ。もう来ないかと思ってた。

ねえ、あんた馬鹿真面目に参加表提出したでしょ。テスト前で参加できない日も◯で提出しておかないと役付きなんて貰えないよ。熱出たとか適当に理由つけて休むもんなんだよ。あんたって本当に何も知らないよね。馬鹿じゃないの"

皆がまたクスクス笑った。嘲笑う目で見てきたのは全員役を貰っている子達だった。

 

その日はまた避けられ遠目から笑われた。

こんなに嫌われる意味が分からなかった。

英里と一緒なら頑張れると直感した自分を恨んだ。

女社会は誰かをいたぶっていないと成りたたない、しょうもない世界なんだ。ここでもそうなんだと悲しくなった。

(※後日 新体操編にて詳しく話します。)

 

 

 

だが、悲しくなると同時に別の感情が湧いてきた。

 

英里のその発言以降、私は開き直って通常レッスンにも参加するようになった。

高校2年にもなって取り巻きを作ってくだらない事をしている女におびえていた自分が急にアホらしく思えた。

 

”可愛い天才達”に英里たちのような態度をとられていたら、

自分を価値のない人間であると思い悩んで本当に駄目になっていたかもしれない。

学生にとって学校とは世界の全てであり、その世界で全否定されれば、人格形成に大きな欠損を与える。

その年齢が小さければなおさら影響は大きいが、高校生といってもたかが10代中盤。大人になる過程において大切な時期ではあると思う。

 

好きで通っているミュージカルスクールなのに、くだらない人間の為に屈するのは悔しい。

同時に湧いてきたのは闘志だった。

 

 

それからは避けられようが笑われようが関係なかった。

くだらない人間をこちらが無視しているのだとすら錯覚した。

以前は更衣室に入るのも英里達がいるのではないかとびくびくしていたが、英里たちがいてももう関係なかった。

むしろ、人を虐げることで楽しんでいる女の子たちを見下す視線で、今日はどんなくだらないことをしているのかと興味が湧いて、いないとがっかりした程だ。

 

12月下旬になり、寒さも増してきた時期についに事件が起きた。

公演を2週間後に控えたその頃、小中学生は冬休みだったので、出演メンバーは下宿所を利用して合宿を行っていた。合宿と言ってもレッスン後にお泊りをするだけの仲良し会のようなものだったが。

その、仲良しお泊り会には大人の目はなかった。
先生もレッスンも後は帰宅し、下宿所のお世話係のおばちゃんもごはんのあとはご自由に楽しくやってね、といったように消えていった。

 

大人の目がなくなってからはひどいもんだった。

下宿生だった英里が我が物顔で小学生に雑用を指示し、自分たちは一番にお風呂に入り、寝場所を確保してお菓子パーティーを始めていた。私の知っている”英里の本当の姿”を全員が目撃した。

 

自分の庭で大きな顔をしているだけの英里に大学生は何も言わなかったし、英里も大学生には何も言わなかった。

年上、先生、大人。英里は自分より立場が強い人には手を出さない。むしろ、顔色をいつも伺い、良い子を演じ続けていた。

大学生は外部の人間だし、自分のテリトリーでの影響力がないと判断したから本当の姿を現したのだろう。

 

深夜になり、子ども達が寝静まった頃にレッスン場の更衣室に移動して今まで英里にされてきたことをついに暴露した。

 

"そういう子だよね"

"だって顔が引きつっててやばいじゃん"

大学生たちは英里の本性を見抜いていた。

 

その一件以来子どもたちは大学生たちを慕い、

英里たちは出演者の中で浮いた存在になっていった。

 

 

1月中旬。公演まであと1週間を切った頃、レッスン中に小学生数人が泣き始めた。

公演が近くなっていたのにクライマックスの演技について先生からの駄目出しが連発したのだ。

 

英里たちに虐げられるし、大人はぴりぴりしている。

そんな空気を一番感じ取るのは子どもだ。

それが子どもたちの精神状態にも影響していた。

子どもにとって環境が悪すぎた。

 

舞台裏が不仲では良い公演になるとは到底思えなかった。誰もがそう思っていた。

 

 

そんなとき一番に声を挙げたのは紛れもない、戦犯の英里だった。

”みんな、一緒に劇を作り上げる仲間なんだよ。一つの舞台に立って一つのものを作るのに、こんなに心がバラバラに離れてたら無理だよ。いいもの作りたくないの?私は作りたいし、その為の努力をたくさんしたいよ。だから、私からのお願い。みんなで話し合ったり、もっと仲を深めていいもの作っていこうよ”

 

 

?????????????

私だけではない。全員の頭にクエスチョンが浮かんだはずだ。

もちろん、英里派の性悪女たちは、目上の目を気にして英里の肩を持った。

まるで私たちが一部の人間で仲良しごっこをして今までの全体の不仲の原因を作り出したような物言いだった。

 

ここまでくると逆に凄いな。笑えてきた。

心の中で大爆笑したが、

これ以上面倒なことは御免だったから心の中で留めておいた。

 

それからというもの、今までの横暴さが嘘のように英里派性悪女とその他はいい関係を築いて着実に公演に向かって進んでいった。

表面上は。

 

悪者にされたことによる鬱憤は大学生派にとって大きなわだかまりとなっていた。

 

そのまま表面上の良い関係のまま、

公演は全日程、満員御礼で幕を閉じた。

 

舞台はに立てて素直に嬉しかったし、

やって良かったと心から思った。

やりたいことを何があってもしっかり頑張れる自信がついたような気がした。

 

人前で踊ること、歌うこと、もっとやりたいと思った。

 

 

 

 

 

 

思ったけれど、そのスクールに行ったのは、

公演の公式打ち上げ&上映会が最後だった。

  

 

 

高校生活④不公平感

スクールに通い始めて次の日曜日に英里と買い物に行く約束をした。

それまではシューズをもっていなかったので、
レンタルを利用していたが、自分のを持っていたほうがいいと英里が誘ってくれたのだった。

 

英里は広島県出身で、ミュージカルスクールに高校1年生から

住み込みで下宿をしていて、プロを目指していた。

下宿所には、高校卒業と同時に出所するというルールがあるらしく、当時下宿していたのは英里だけだった。

私が同い年だから英里も嬉しかったらしく、色々なことを教えてくれた。

 

体験レッスンではジャズダンスを受講したが、

タップダンスとバレエもミュージカルにおいては重要な要素となるから受講した方がいいこと、皆がどんな物を使っているのか、レッスン時に先生にアピールするのは大事なことだよ、と処世術のようなことも教えてもらった。

 

ダンスだけで3種類を受講することになった結果、購入する物が多くなった。

ジャズダンスシューズ、タップダンスシューズ、バレエシューズ、その他もろもろ。

S区の繁華街に英里と繰り出し、
chacootをはじめとした、用品店をはしごして、シューズを揃えた。

バレエの際に着るレッスン着も揃えたので、金額的には大きくなったが、自分では1円も出さずに済んだ。親が持たせてくれたお金で購入したので、正確には覚えていないが、軽く5万は越えていたと思う。

 

音大に通い、自分専用のグランドピアノと防音室を買い与えられた姉を見ていたから、これくらいは安い買い物だし当然だと思っていた。

思い返せば、姉が高校で吹奏楽部に入ったときは30万円近くするトランペットを買い与えていた。それなのに私が部活で使うからとギターをねだったときには

”そんなの一生使うわけじゃないんだから”と却下された。

トランペットだってプロになるわけじゃないんだから一生使わないのに。

姉と私へのお金のかけ方に不公平感を抱いていたことは間違いない。

 

結局、お年玉で貯めていた5万円で自分で買ったけれど、たいして練習しなかったし、3回ほどライブでギターヴォーカルとして、コードのみ演奏しただけでタンスの肥しになっているから母が正しかったのだが………

 

 

当たり前に自分専用の高価なシューズを揃えた私は、レッスンに打ち込んだ。

学校から直接スクールに通っていた私はいつもレッスン時刻よりかなり早くついていたが、住み込みの英里もいつも早かったので、レッスン場を借りて2人で振り付けをして、ニコニコ動画(当時はYouTubeよりもニコニコ動画が主流だった)にUPする約束もした。

 

 

レッスンに通い始めて1か月が経った頃、

定期公演を開催するとの発表があった。

私が客席から見ていた前年の公演は、小中学生の部と高校生以上の部で分かれて2作品公演だったが、当年は全体でひとつの作品を公演することになった。

つまり小中学生がメインの作品であり、高校生以上はわき役か、役も付かないアンサンブルの参加になると発表されたも同然である。前年は準主役級の役を演じた英里はひどく嘆いていた。

 

子どもの数に対して、大人役が少なすぎる為、

外部の一般人からも募集を募ることになった。

 

 

 

これが軌道に乗り始めた私のレールを再び曲げることとなる。

 

 

 

 

 

高校生活③ミュージカルスクール体験

発狂事件が起きてからも高校には通い続けた。

発狂事件概要↓

高校生活②墜落 - アイドル転落記

 

 

友達は嫌いではなかったし、頑張って受験をした思いが蘇ったから。

何よりも、中学の先生に相談したら、

受験には余裕で合格したと、受験成績表を見せてくれたから。

 

クラス成績も最下位ではないからもっと下がいることにも

このとき初めて気づいて、少しだけ元気になったから。

 

人間の心理とは最低なもので、

上を見ればきりがないが、自分より下を見て安心する。

 

こうして社会は成り立っているのかもしれないと、思った。

 

ある街頭アンケートがある。

”自分の容姿は何点ですか?”

 

女性限定でのアンケートだったが全員が75点以上と点数を出した。

お世辞にも可愛いとは言えないような女性ですら、自分のことを平均以上だと思っているようだった。

 

点数についてのコメントをもらうと

「普通よりは可愛いかなと思っている。」

100人中95人はこう答えた。

残りの5人はというと、謙遜して

「ブスだから」と答えていたが、その5人ともとても可愛らしい顔立ちで、

可愛いと幾度となく言われてきたであろう顔をしていた。

本心でそう思っているとは到底思えなかった。

 

 

女って性格わるい。

そう思い始めた高校1年の秋だった。

 

 

 

 

 

 

ミュージカルがやりたい。

そう言ってから、実現すべく色々調べた。

自分からは何も動かないのに、人のせいにしてばかりいる

今までみたいな厚かましい自分が嫌だった。

 

 

未経験 ミュージカル

高校生 ミュージカル

歌いたい 踊りたい

歌 下手 ミュージカル

 

色んなワードでネット検索をして、

M市にあるミュージカルスクールに辿りついた。

 

税理士である父がたまたま仕事で足を運ぶ場所の近くだったので、

父と母、3人で見学に行くことになった。

父はなんだかとても嬉しそうだった。

 

 

体験レッスン、見学いつでも大歓迎

 

そう書いてあったので、ノンアポで見学に行ってしまったのが間違いだった。

日曜日のその日は、最終リハだったらしく見学を拒否され、無駄足となってしまった。

 

 

 

高校1年生。15歳。

思春期真っ只中の私は見学くらいひとりで行けるからと豪語し、

3人で出かけるのさえ不満があったのに、

その上見学すら断られ、ことさら不機嫌になった。

 

 

勇気を出して踏み出そうとしたのに、

ミュージカルスクールにすら拒否されたんだ。

私は何かを始めようにもきっかけすら掴めずに砕かれるんだ。

こうして悲劇のヒロインになりきって厚かましい自分へと戻っていった。

 

 

 

転機が訪れたのは翌年2月。

例のM市のミュージカルスクールの公演があると母が見つけてくれ、

一緒に見にいくことにした。

 

ミュージカルを生でみたのは、小学校の音楽鑑賞教室以来だった。

同年代の子が舞台に乗って演じている姿がとても眩しかった。

その中でもひとりダンスで輝く子がいて、ずっとその子を目で追っていた。

私もこの中に入りたい。

強くそう思ったが、厚かましさが板についた私が重たい腰を上げるのは、

2年生の文化祭が終わる頃だった。

地獄の高校もその頃には開き直って、相変わらず勉強はしないまま提出物でポイントを稼いでどうにか留年しないように在籍していたのだが、

ミュージカルスクールのことを思い出したのは、文化祭がひと段落して刺激を求めていたときだった。

 

1年の2月から2年の秋にかけての空白の半年以上の間

私は、男遊びに夢中になっていた。

それは後日、綴ろうと思う。

 

 

 

 

重い腰を上げた私は

今度はひとりで学校終わりに見学へと出かけた。

平日の夕方の時間帯のレッスンは今度こそ見学することができた。

その日は歌のレッスンとダンスレッスンがあり、親切なことに両方の体験レッスンを受けさせて貰えた。

最初は歌の集団レッスンだった。

 

レッスンスタジオに案内されると、2月の公演時に目で追っていた子、他の役で出演していて、顔を見たことがある子がいて、声をかけたらすぐに打ち解けた。

公演時に目で追っていた子は英里という名前で、同い年の高校2年生だった。

 

体験レッスンは発声練習からはじまった。

歌についてのレッスンは初めてのことで、顔には出さないが、内心とても嬉しかった。

ただ、他のメンバーは既にちゃんとした発声方法を身につけていて、見よう見まねでついていくだけだったから集団レッスンでは正しい発声方法はわからなかった。

それでも、歌のレッスンを受けれたことが嬉しかった。

 

次はダンスレッスンを体験したのだが、ダンススタジオに入る前に担当する先生に

"うわっ!ギャルだ"

と驚かれた。

見た目だけでも”可愛い天才たち”の仲間入りできた気がして嬉しかった。

この先、この金髪の髪の毛がミュージカル生活において仇となるのだが.........

 

スクールでは、ミュージカルの要となるジャズダンスをはじめ、タップダンス、ヒップホップ、バレエの項目があり、その日はジャズダンスだった。

小2〜中2まで新体操をやっていたので身体を動かして踊ることに関しては全くの素人ではなかったが、3年ぶりに動かす身体は完全に鈍っていて自分が自分じゃないようだった。

 

振り入れに関しても、見たまま動くことができず考えてから動いてしまう。

大人になると最初にまず頭で考えてしまって動けないと聞いてはいたが、

こういうことなのか!!!とハッキリ実感した瞬間だった。

 

私が時々発動する、運の良さをこの時無駄に発揮した。

曲の振り入れが新しい曲に切り替わったタイミングだったのだ。

ダンス上級者でなければ、1から振り入れをスタートするのと、途中から参加するのでは、意味が全く違う。

私はついていると思った。

英里はダンスレッスン中、私を気にかけて時々目配せをしてくれた。

英里は優しい子だな。

ここでなら頑張っていけると直感した。

英里と切磋琢磨していきたい。心からそう思った。

レッスン後に英里とメールアドレスを交換し、一緒に頑張ろう!

と約束を交わした。

 

帰宅後すぐに母にスクールの感想と通いたい旨を相談した。

快く承諾してくれ、翌日にはお金を握りしめて向かった。

その日以降は高校とスクールをはしごし、家に眠りに帰る毎日を送った。

 

高校のダウリングコレットの活動は、

同好会なので月に2~3回しかなかったし、

ダウリングコレットの活動日にはスクールは行けなかったけれど、

萌子と愛菜と亜樹とは仲良くやっていたので、

ようやく充実した高校生活が訪れた気がした。

夢に向かって一歩踏み出せた気がした。

外部で活動することによって劣等感を感じていた”可愛い天才達”よりも

大きく上回った高揚感を得た。

気がした。

 

 

 

気がしたのだった。

 

 

 

 

高校生活は続く。

 

 

高校生活②墜落

そんなこんなで勉強面で苦労しつつ

高校生活① - アイドル転落記

(詳しくはこちら↑)

 

 

 

高校生活には慣れていったが、

私が配属された1年5組は、2年生以降のクラス替え後であれば教師に手が加えらそうなほど学年のギャルを集めたクラスであった。あまりにもギャルがいすぎて、入学式当日教室入った瞬間に”入る学校間違えた”と、思ったほどだ。

制服がなかったので、なんちゃって制服を着ている子が多かったのだが、

膝上20cmは当たり前だった。

 

 

今思えばただ髪の毛を染めていただけで、

ギャルでもなんでもない。

お洒落がすきな”可愛い子”がいただけだったのだが、

黒髪、ノーメイク、膝丈普通の地味女の私には衝撃的だった。

 

学年の”可愛い子”が1年5組に集まりすぎていて、他のクラスには1人いるかいないか程度だった。

そんなクラスに所属していた為、私も1年生の5月には髪の毛を茶色に染め、メイクもはじめた。

それまではメイクに興味はあったが、どうしたらいいのかわからなかったが、見よう見まねで雑誌を買って研究しはじめた。偏差値と治安は比例するらしく、いじめや嫌がらせといった無駄なことをする子はいなかった。優しい子が多かったので、地味女の私にもメイクや、ヘアアレンジを教えてくれた。

そのおかげで私も徐々に、”可愛い子”の仲間入りをしていった。

 

 

楽しい高校生活を送っていた。

6月下旬までは。

ここからが墜落の始まりだった。

 

 

 

 

高校入学後初めての期末テスト。

 

 

授業にもついていけていない、理解も出来ていない。

それに比べて、皆はすらすら勉強が出来ていて、部活やバイトで高校生活を謳歌し、楽しそう。

この時点で劣等感を感じていた。

私の悪い癖で、すぐに人と比べて一喜一憂する。

この癖は今でも変わっていないが………

 

劣等感は5月の中間テストの時にも薄々感じてはいたが、

まだ高校生活は始まったばかりだし、そのうち慣れると思っていた。

 

 

 

授業が始まってすぐの時期から、

理解できないから勉強しなかった。

勉強しないから理解出来なかった。

 

どんどんこの差は開いていき、

ついに歴然とした形となって現れた。 

 

入学前と同様に、試験前にも膨大な提出物が課題として出された。

これは進学校の宿命であろう。

この提出物をクリアすれば、きっと大学もMARCH以上には行けたのだろう。

この記事をお読みの学生がいるならば、断言する。

分からないことはそのままにせず、すぐに解決すること。

そうしなければどんどん遅れをとり、後戻り出来なくなる。

聞くは一瞬の恥、聞かぬは一生の恥!!

 

 

そんな恥の塊の私は、

膨大な量の提出物を、答えを写しつつ消化し、

試験を迎えた。

もちろん試験範囲の内容なんて理解出来ないまま。

 

中学までと大きく違う点は、自分のクラス順位がはっきりと知らされるところだ。

結果は全教科40人中35位~39位の間だった。

中学時代、必ずといって良いほど80点以上だったのに、

高校では50点すら取れなかった。

 

 

「何位だった?」

楽しそうに順位を見せ合う天才たちを横目に、私は順位をひたすら隠し、話題を変えるのに精一杯だった。

頭の出来の悪さをネタに出来る程、当時の私は大人ではなかった。

 

見た目も可愛くて、勉強もできる天才たちに囲まれて、

それ以降の私はただただ惨めだった。

 

 

そのまま夏休みになったが

友達と会っても自分が惨めに思えるだけだったのでなるべく会いたくなかった。

引け目を感じたまま時々は友達と遊んだが、

それ以外は家に引きこもった。

膨大な量の宿題を抱えながらSNSで可愛い天才達のリア充生活を

嫉妬しながら眺める毎日を送った。

 

 

今でもSNSは嫌いだ。

自己顕示欲を最大限に出し切って、近況報告をする

良いとこ取りのマウントの権化にしか見えない。

 

 

そのまま夏休みが終わり、また中間試験を迎えたが

 2学期に入り、なおさら勉強が分からなくなっていた。

 

両親は私の成績を見ても、他の子がよく出来るだけだと、

私を責めるようなことはしなかったし、

好きなことをしていいよと言ってくれていた。

 

 

”好きなことをしていいよ”

 

”好きなことしていいよ”

 

本来であれば思いやりでしかないこの言葉がきっかけで
走馬燈のように過去の出来事が蘇った。

 

 

”好きなことしていいよ”

 

アイドルオーディション、

即否定したのに………

 

”好きなことしていいよ”

 

 

じゃあどうして、即否定したの??

あんたなんか無理って端から否定しておいて何言ってるの?

 

アイドルを即否定されたから

10歳頃

”アナウンサーになりたい”と言ったとき

もっと真面目な職につきなさい

 

そういったのは誰??

 

やりたいことはあった。

なのにすべて否定されてきた。

 

 

 

 ”好きなことしていいよ”

 

 

私はこのときから狂ってしまった。

 

 

”好きなことしていいよ”

突然ではなかったと思う。

徐々に徐々に、

可愛い天才達が好きなことをしているSNSを嫉妬しながら、

少しづつ少しづつ。

良い子の道をたどっていた私のレールは狂った。

 

2学期の中間テスト前だった。

音大に通っていた姉のように、

好きなことはないの?

やりたいことはないの?

 

そう聞かれた。

 

好きなことを否定され続け、

ただでさえわからない勉強に必死だった私は、

教科書を投げ飛ばし、ぐしゃぐしゃに破って、

「勉強なんてしたくねえよ  高校なんてやめてやる

こんな学校入らなきゃよかった」

大声で叫んだ。

いっぱいいっぱいだった。

 

 

 

 

その言葉を絶叫してからは、

本当に高校を辞めたいのか、

嫌なら転校してもいいんだよ

 

そういった話を母としたと思う。

狂っていたので、記憶がない。

 

 

冷静になった私は、

ただ可愛い天才達に嫉妬していただけだと気づいた。

 

”好きなことしていいよ”

やりたいことに対して正面からぶつかり、自分から動いていないのに

やらせてもらえないと被害者ぶっているだけだと気づいた。

 

自分からはっきり言わないのに気づいてほしいなんて

なんと厚かましいのだろうか。

 

 

 

 

 

 

その後、よく考えた私は母にこういうのだった。

 

 

 

 

”ミュージカルがやりたい”

 

 

 

 

 

このときにアイドルになりたいと言えなかったのは、

可愛い天才達の顔面偏差値を知っていたから。

顔に自信はなかった。

それでも、歌いたい踊りたい。

この願望は消えなかった。

 

そして見つけた。

 

 

ミュージカルがやりたいと。

 

 

高校生活は続く

 

 

高校生活①ダウリングコレット結成

中学卒業後、公立高校に進むことになる。

前記事の

アイドルになろうとしたきっかけ - アイドル転落記

では触れなかったが、中学校3年の4月からは塾に通っていた。

中学までの授業は、聞いていれば理解できたし、成績も悪くはなかった。

だが、母は高校受験で自分の学力相応の偏差値55程度の高校に進んで苦労していた姉の姿を見て、私には偏差値の高い学校に入ってそのまま良い大学に入れるようにと願ったようだ。

 

中学3年の夏以降は結構勉強した。

塾も勉強も楽しくて苦ではなかったし成績もぐんぐん伸びた。

オール4前後だった成績が、内申点として重要な2学期にはほぼオール5になった。(美術と体育はどう頑張っても4だった。笑)

そのまま公立の推薦でも良かったが、

塾の先生から私立の附属高校を進められたので、

早稲田大学の附属を推薦で受験したが、試験本場の小論文の問題が今までに経験のない分野で、躓いた。

 

 

受験結果は

 

 

 

不合格

 

 

 

元々早稲田大学附属自体が無謀だと自分でわかっていたから、

1ミリも落ち込まなかった。

 

落ちてむしろ良かったとも思っていた。

自分だけ私立に行くのにためらいがないといえば嘘だったからだ。

 

その後、公立高校を受験し、偏差値65程の高校に合格した。

日本の法律を侵さなければ何をしても良い、校則のない自由な校風で、

もちろん制服なし、染髪、ピアスOK!!

 

この自由な環境で3年間過ごすこととなる。

ドラマで見たような、漫画で読んだような甘酸っぱい高校生活が待ち受けていると思っていたが、実際はただ酸っぱい高校3年間になる。

 

このときは知る由もなかったが。

 

 

 

 

 

 

高校入学数週間前、

1年生の教科書を受け取りに行った際に

入学前の宿題が出された。

 

 

 

量がえげつない。

 

英国数、各問題集2or3冊(50ページほど)

英語小説1冊読破

 

 

 

 

これを中学卒業~高校入学までの

約2週間でやれと………

 

 

 

 

私には無理だった。

入学する前にもう無理だと悟った。

実力的にギリギリの高校を最下位で合格したと思っていたから、

ここで初めて勉強面で絶望を味わった。

 

まだ入学すらしていないのに。

 

 

 

4月。

地獄の高校生活が始まった。

入学式翌日から実力テスト。

授業は、”はい皆、入学前の教材でやったからここ分かるよね~”

で進んでいく。

皆それが当たり前の様にすました顔で問題を解いているし、

部活に専念して、笑っている。

 

私にはついていけなかった。

中学までは、何をしても中の上以上にはできていたのに、

何をしても良くできる人の中に放り込まれた途端、

本物の自分の姿が映し出され、自分に自信がなくなった。

井の中の蛙だったのだと、このとき初めて理解した。

自分なんてたいしたことない。

自信が日に日に失われていった。

 

 

自信を失いつつも、それなりには楽しかった。

高校1年生、15歳。

このころには、自分の顔面偏差値がどの程度なのかも分かっていたし、アイドルになるのは諦めていたけれど、人前で歌を歌いたいという願望捨てきれずにいたので、軽音楽同好会に入会した。

バンドは、ヴォーカル、ギター、ベース、ドラムの4ピースが基本として成り立っているので、1つのバンドを結成するにはそれぞれ1人は最低でも必要だった。

 

私はこういうところで運を発揮する。

同学年に、しかも女子で、それぞれの楽器をやりたい子が集結したのだ。

 

ギター:萌子

ベース:愛菜

ドラム:亜樹

 

4人でバンドを結成した。

バンド名は”ダウリングコレット

 

当時、倫理の授業でやっていた、

シンデレラコンプレックスを唱えた人物の名前をとった。

 

私以外のメンバーの顔立ちはとても綺麗だったので

すぐに先輩からも、同級生からも

ダウリングコレットは有名になり、校内でも人気のバンドに成長していった。

名前だけが成長していった。そう。名前だけが………

 

 

 

ライブをする前に名前だけが有名になりすぎたのだ。

当時15歳。担当した楽器経験があるのはギターの萌子だけだった。

萌子は5歳から父親にギターを習っていた為、下手な3年生よりも断然上手いほどの実力者で、一方の3人は未経験者だった。

 

私なんて、マイクを持って人前で歌った経験なんてないし、憧れていただけでレッスンすら受けたことはなかった。どう発声するのか正しいのかもわからなかった。

音楽の成績に限ればピアノをやっていたので、小学生の頃から一番良い成績しか取っていなかったし、歌も上手いと言われていたが、それも井の中の蛙。勘違いも甚だしかった。

 

 

 

 

名前だけが有名になりすぎたダウリングコレットの初ライブ。
私の歌声を聞いてがっかりしなかった人はいないだろう。
音程はそこまでひどくはなかったはずだが発声が聞くに堪えないものであったに違いない。

 

 

 

観客だけでなく、バンド内でも私がヴォーカルってどうなの?

という疑問が生じていたのではないかと思う。

初めて軽音室で歌った私の歌を聴いて、

亜樹の顔がひきつったのは今でも忘れない。

声が高くて可愛い愛菜に、その後何度も歌わせようとしていたことも、

実際にもう一つバンドを結成して愛菜に歌わせていたことも、

忘れない。

 

 

 

 

 

 

方向性の違い、メンバーのやる気の違いで

簡単に解散していくバンドが多数ある中ダウリングコレットについては、

3人が可愛い!!

というだけで人気を保ちつつ、解散せずに卒業まで存続できた。

奇跡である。

可愛いとは正義なんだとこの時改めて実感した。

 

 

 

高校生活は続く

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

アイドルになろうとしたきっかけ

幼稚園入園から高校卒業までは

この世の中にいる大多数のひとと何ら変わらない

平凡な毎日を送っていた。

今後も平凡な生活を送るはずだった。

 

公立小学校に入学し、公立中学校へ進み、公立高校に入る。

ここまでは親が敷いたレールに乗っていただけだったから。

自分で何も考えなくても、全部やってくれていたから。

やろうと思えば何でも出来る子だったから。

全てが順調にいっている、今後もそのはずだった。

 

ひとつだけ。たったひとつの

胸にしまった思いを遂げようとしなければ………

 

 

 

 

私はアイドルになりたかった。

誰かに相談したことも、口に出したこともなかったけれど、

2000年代、当時国民的アイドルとして大流行したモーニング娘。に憧れていた。

テレビを付ければ必ずといっていい程映っていたし、

誰もが知っていて、学校でも女子生徒が集まればその話題で盛り上がった。

 

ある日の家での一瞬のやりとりが私の自信も希望も奪い取ることになるのだが………

 

 

その日はテレビでモーニング娘。の出演する歌番組が流れていた。

私は好きで好きで、歌って踊って、マネをしていた。

きっとよくある光景だと思う。

今であれば素人の歌ってみた、踊ってみたなんて、

ごまんとYouTubeにアップされているし、

子どもがやっていれば微笑ましいものであろう。

 

その当時は90年代。YouTubeはなかった。

私に向かって姉が言った一言が発端だった。

 

”オーディション受けたら?”(姉)

”あんたなんか無理よ”(母)

 

私がオーディションを受けたいといったわけでも、

受けると宣言したわけでもないのに母は即答した。

 

”あんたなんか無理よ”

 

確かに、格段に可愛いわけでも、ダンスを習っていたわけでも、

歌が上手いわけでもない私が受かるはずはなかった。

 

当時は自分を完全否定された気持ちだったが、

普通の感覚を持った親なら確かにそう言うだろう。

 

それでも、書類を送るだけでもしてくれていたら、

私も諦めがついただろうに。

母の即答によって逆に私の”絶対にアイドルになってやる”という闘志に火がついてしまった。

8歳の出来事だった。

 

その後すぐになにか行動を起こしたわけではなかった。

8歳の女の子には、どうしたらアイドルになれるのかなんて、

到底わからなかったから。

毎日、新聞のテレビ欄の下の広告”劇団ひまわり””テアトルアカデミー

俳優の劇団の広告をみて、喉まで”これ受けたい”と言いかけては言えない、

そんなことを繰り返すことしか出来なかった。

 

 

 

中1の夏ごろに、母からおさがりのケータイ電話(当時はガラケー

もらって、はじめて、自撮りをしてみた。

その写真を使ってネット経由でテアトルアカデミーに応募してみた。

 

養成所なので、オーディションとは書いてあるが、落ちるはずはないのに

書類が通って飛び上がる程嬉しかった。

自信のなかった顔にようやく自信が持てた気がした。

 

 テアトルアカデミーの”オーディション”に写真を送ってからは、

学校に行くのも気が気じゃなかった。

私が学校に行っている間に家に電話がかかってくるんじゃないか。

私のケータイに電話がかかってくるんじゃないか。

書類が届いて、母が先に見てしまうんじゃないか。

 

結論としては、

書類審査通過、一次面接のご案内

という書面が郵便で送られてきただけだった。

母は私宛の書類を、例えチャレンジ一年生であっても

勝手に開ける人ではなかったから、郵便受けにあった書類が机の上に置かれているだけだった。

 

”最近の情報漏洩ってすごいのね。こんなところにも漏れるのね”

送り元がタレント養成所郵便をみた母の感想は以上だった。

 

一人で面接に行ってしまおうか。

少し怖いな、お金かかるのかな、自信ないな。

 

指定された面接の日まで思い悩んでいたが、

最終的に、所属していた吹奏楽部の練習が指定された日程と被ったので、

部活と被ってしまったのだから行けなくても仕方ないと自分に言い訳をしつつ、ほっと心をなでおろして部活を優先させたのだった。

 

そこから約3週間後にもう一度、一次面接のご案内が送られてきたが、

その時にはもう完全に戦意喪失していた。

 

こうして私の中学生活は平穏に幕を閉じる。

 

続く